曾祖父のお盆帰省。

お題「子供の頃の不思議な体験」

 

今回はお題にそって書いてみる。

「子供の頃の不思議な体験」。

 

曾祖父は私が五歳くらいの時に亡くなった。

会ったことがあるのは一度や二度くらい。

しかし、私が持っていたおもちゃのカメラにお姫様のようなポーズをしていたりと、面白い人だったので記憶に鮮明に残っている。

大好きな人だ。

 

曾祖父が亡くなった次の年の夏。

ある日、私は洗面所で手を洗っていた。

その時、洗面所の横にある風呂場から私の名前を呼ぶ声が聞こえた。

直感的に「ひいじいちゃんだ」と思った。

風呂場の戸をすぐさま開けたが当然そこには誰もおらず、「会いに来てくれたんだ」という不思議な嬉しさが残った。

なぜだか怖いという気持ちは全くなかった。

守られているような温かさがあった。

 

今思うとお盆が近かったから会いに来てくれてたのかな。

 

母がおじいちゃんっ子だったこともあり、我が家の食器棚には今も曾祖父の小さな写真が置かれている。

きっとずっと見守ってくれているのだと思う。

寝息。

誰かの寝息に聞き入ったことはあるだろうか。

人の寝息というのは何だか幸せな気持ちになる。

そもそも寝息が聞けるということはその人がこちらを信頼してるからこそのことだろう。

自分を信頼してくれている人が手の届く範囲、もしくは声が聞こえる状態で安心して眠っているというのはとても嬉しいものだ。

 

私には遠距離の恋人がいる。

会えるのは2ヶ月に一回ほど。

頻繁に会うことは難しい。

そのため毎晩寝る時に電話を繋げているのだが、あちらが先に寝ることが多いため寝息をよく聞く。

言ってしまえばただの空気の音のはずなのにとても愛おしく感じる。

人間とはそんなものにも感情を抱く想像力豊かな生き物なのだろう。

 

やや惚気になってしまった。

不快な思いをさせたなら申し訳ない。

ふと思ったことのつぶやきだ。

自己紹介は承認欲求の塊な気がする。

初めてブログを書いてみる。

文章は好きだけど、自分で書くとなると少し難しい。

言葉遣い1つで誰かを気づつけたり、自分のことを誤解されてしまうかもしれない。

でも私は言葉が好きだ。

これは周りの人にはあまり共感してもらえないことだけど、何かを読んでるときに脳裏に浮かんでくるあの景色が好き。

ブログを読むような方には共感してもらえるかな。

私も誰かにそういう景色をあげられる人になってみたい。

 

 

タイトルに「自己紹介は承認欲求の塊な気がする。」って書いたけど、これは本心。

いや、私が自己紹介を承認欲求として使ってしまっているだけかも。

自分が今までしてきたこと。

その当時はただ苦しくても後から見れば努力していたんだと気づく。

私にとって「自己紹介」は『こんなに頑張ってきたんだよ!』の結晶になっているのかもしれない。

だから承認欲求だと感じてしまうのか。

 

この考えは普遍的なものだとは言えない。

 

でも、文章を読むときとか、何か作品を見るときに、その背景にある作者の価値観だったり経験に関する知識が重なると奥深いものを感じられる。

無知な状態で何かを見るときと、知ったうえで見るとき。

それぞれ違った感覚を得られる。

一人二役みたいな感覚。楽しい。

 

ということは私の自己紹介もしたほうが読み手の方は楽しめるのかな。

でも流石にタイトルに抗いすぎてるからまた今度。

 

 

読んでくださってありがとうございます。

自分の考え、気づいたことが誰かのためになったらいいな。